西日本から国会へ――白川よう子の歩み(上)

 7月の参院選で中国、四国、九州・沖縄17県を活動地域に比例代表で立候補する日本共産党の白川よう子さん(58)。衆院比例候補として8年間駆け巡った四国ブロックから活動範囲が大きく広がる候補者要請に「私に務まるのか」と悩みました。「新しい政治の流れを比例5人当選でさらに前に進めたい」と挑戦を決意。白川さんが歩んできた道のりを沼介します。

 党と出合って

 「生きること、幸せになることを諦めなくていい社会の実現が私の原点」
 街頭や集会で訴える背景に、過酷な生い立ちや香川県議時代の体験があります。
 小さい頃から父親が母親に暴力をふるい、おぴえる日々を過ごしました。高校生のとき制服とカバンだけ持ち母親と家を出ました。
 ミカン箱で勉強し、授業料の支払いにも窮する極貧生活。看護師の姉が難病の義兄と結婚し、ともに暮らしたこともあり、働きながら社会福祉を学びたいと高校の先生に相臥しました。
 「今までよう頑張った」と奨学金の手続きをしてくれ、日本福祉大学第2部に進学できました。
 卒業後、民医連加盟の医療生協に就職。経済的理由で治療を断念するお年寄りなど、命がお金で左右される現実に直面しました。職場の先輩から日本共産党への入党を勧められます。
 「ちょっと革新的なことを口にすると、父に『おまえはアカか』としかられ、共産党が嫌いだった。だけど貧困をなくし医療をよくするため政治を変えるのが共産党だと知った」。党と出合い、白川さんの「本当の歴史」が始まりました。

 要求阻む悪政

 2003年、引退する前県議の後を継ぎ香川県議に初当選。当時の子ども医療費は窓口で支払い申請すれば戻る償還払いでした。親たちの要望に応え窓口無料化を主張。運動と績んで実現させ、年齢も3歳から徐々に引き上げてきました。
 05年、県営住宅約2200戸の削減計画が示されました。県議会で反対は白川さんだけ。諦めずに住民の声を突きつけました。仁比聡平参院議員、白川さんら党県委員会の交渉で国側は「廃止の基準に該当しない」と回答。計画の大幅見直しに追い込んだのです。
 「声を国政に届ける議席の大切さを実感した」。豪雨災害の被災地、若者の生活実態を調査する深夜のコンビニ店、原発廃炉を迫る市民行動…要求の現場に白川さんの姿がありました。
 県議4期目の時、夫のDVで他県から逃げてきた母子と知り合い、相談に乗ってきました。ある冬の日の朝、子どもから「お母さんが息をしていない」と連絡が。駆け付けると、ゴミが山和みの部屋で母親が息を引き取っていました。
 「突然の状況を受け止められない子どもと一緒に部屋を片付け、支援を続けた。里親に引き取られる時『白川さんのような仕事をしたい』と。うれしかった。どんな成育環境でも人として幸せに生きられる政治にするのが議員の役割」
 県民要求を実現しようとすれば国の悪政にぶつかってきました。「参院選で党議席を増やし、国政を動かす」     (つづく)

(1月7日付「しんぶん赤旗」日刊紙・西日本のページから)